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Viola Dream II
7年ほど前から、私は8月が憂鬱になった。少年時代は"昆虫博士"と呼ば
れ、夏休みは勉強そっちのけで虫捕りに励んだ私が、である。寒いのは苦 手だが、暑いのは嫌いではない。それではなぜ、8月が憂鬱なのか。それは イネの花が咲く時期だから、である。
私は幼少時代からアレルギー体質に悩まされてきた。中学生になるまで
はイカ、今は赤貝と海老の頭を食べるとひどいジンマシンが出る。それでも スギ花粉による花粉症には無縁であり、私のアレルギーは食べ物に限定さ れると思い込んでいた。
ところが、である。
私は某農薬会社の研究所に就職した。私の入社とほぼ時を同じくして、あ
る化合物が発見された。その化合物は人間を含めた動物や魚、昆虫には 無害であるが、作物の病原菌に対して強い殺菌力を持っていた。私はこの 化合物を使って、イネを病気から守るための方法を研究していた。毎日、た んぼに入ってイネが病気になっていないか、化合物は"薬"として効果を発 揮しているか、調べていた。そうして3年が過ぎた。
私は夏が好きで夏が一番元気であった。夏に風邪を引いたことなどない。
それが入社4年目の夏、ひどくくしゃみをするようになった。夏風邪と言うヤ ツか・・・と思っていたのだが、何だか目が異様に痒い。コンタクトレンズをつ けていられないようになった。夜は喘息のような状態。おかしい、風邪では ない。
はたと気がついた。花粉症だ!
イネの花を見たことがあるか、と尋ねられて戸惑う人は多いだろう。もちろ
んイネにも立派な花がある。赤や黄色の花弁があるわけではないので気が つかないだけである。関西では8初旬から中旬にかけてイネの穂が出てくる のだが、この時に良く見ると、後にお米の"もみ"になる部分がぱっくり開い て黄色いおしべが覗いているのがわかる。
イネの花は主に午前中に咲く。お米を実らせるための大切な時期だから、
農家の人もこの時期のこの時間帯にたんぼに入ることはしない。
しかし、私は仕事柄やむなく午前中の花咲く時間にたんぼに入っていた。
たんぼを10メートルも歩くと作業着のズボンがイネの花粉で黄色くなった。 私が調査していたのは、イネの下の方、地面に近い部分に発生する病気だ った。イネをかき分けて調査する私の顔の前には、黄色いカーテンを引いた ようにイネの花粉が飛んでいた。
イネの花粉を大量に吸い込み続けたことで、私はイネ花粉症になった。私
は今でも毎年たんぼで仕事をしている。サラリーマンのつらいところである。 長袖長ズボンの上から雨合羽を着用し、手袋とマスク、さらにはゴーグルも 着用してたんぼにいる私を見ると、近くを通る人は皆一様に驚愕の表情を 浮かべる。「やっぱり農薬は危ないんだ・・・」、そうじゃないってば。
イネの花粉を浴びるのは仕事に限ったことではない。私の住んでいるアパ
ートのすぐ前はたんぼである。たんぼの方から風が吹く時は喘息のような症 状で眠れない夜もある。布団や洗濯物も午前中は屋外に干すことができな い。でも、イネが嫌いではないし、文句を言うつもりもない。
たんぼが一面、黄金色に輝く頃、私はようやく安堵の溜息をつく。
すみれはスギやイネと違って、大量の花粉を撒き散らすことはない。彼女
たちは、姿かたちはもちろん香りに至るまで控えめで奥ゆかしい。それでい て、アスファルトの隙間から花を咲かせる強さも持ち合わせている。だから 私はすみれが好きである。
そんな強いすみれも乱獲や生息地の破壊にはなすすべがない。すみれを
含め自然を守ることは大切であり、我々の務めでもある。それも"機械的"に 法やルールで縛るのではなく、"素晴らしいものを後世に伝えたい"と言う想 いを持って実行していきたいものである。
2003年8月23日
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