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Viola Dream II
私はしばしば他所様から『変!』と言われる。嬉しい限りである。理科系の
人間にとって最大の褒め言葉と言っても過言ではなかろう。
残念なことに最近の学生諸君には理科系、すなわち理科や数学はあまり
人気が無いようだ。理科ほど面白い科目は無いと思うのであるが、彼らの 教科書を見て、また、小学校の授業参観に出向いて納得した。こんな教科 書でこんな授業なら人気なくなるわさ! 先生方、ファーブル昆虫記やシー トン動物記を読んだことがあるのかね?と私は言いたい。わずかな挿絵とド キドキする文章、これこそが理科の教科書の手本ではないかと思うのであ る。想像力や知識欲をかきたてられる魅力が今の教科書や授業にあれば、 理科系を志望する学生はどんと増えるはずである。いたずらにカラフルで写 真が多い教科書は子供の好奇心や想像力を育てはしない。
話がいきなり脱線して申し訳ない。今回は個性がテーマであった。冒頭に
書いたように、他人から『変』と言われることは、すなわち、他人と違うこと、 言い換えれば個性的であることを意味している。個性という言葉は現代社 会において頻繁に使われる。個性を伸ばす、個性を尊重する等である。しか し、現代ほど没個性的な時代もないように思える。
TVや映画、その他のマスメディアで発信された『流行』とやらを皆が追い
求め、皆が同じような髪型、化粧、服装、バッグとなる。みんなと同じでない と不安な現代人、それでも個性がどうのと言っている輩を見るとちょっぴり 笑ってしまう。
生物の進化は敗者あるいは異端児の歴史であり、それまでの住み良い世
界を追い出された敗者が、新たな生活場所を求め繁栄してきた(繁栄したの は異端児の極少数であろうが)。これを繰り返すことにより、生物は地球上 のありとあらゆる場所に住み着くようになったのであろう。
すみれは今尚、分化しつつある元気の良い種族である。新たな生育地を
求めて交配を繰り返し、新たな種(しゅ。タネではない)を創造しているので ある。今は交配できる種も悠久の時を経れば完全に独立した種となり、交配 は不可能になる。
野洲町に自生するすみれの調査を始めたものの、分類の難しさを改めて
思い知った。もともと分類などというものは、人類の勝手な基準で生き物を 分ける方法であるから、無理があるのは承知していた。それでも、すみれの 分類のなんと難しいことだろう。シハイスミレとマキノスミレなどは、もうどう にでもなれと言いたくなるくらい、どっちつかずの個体がいたりする。
種の分化はある意味で個性の主張であり、それまでの画一的なグループ
から異端児が発生し、その異端児が増えることで新たな種が形成される。 そうすることで、新たな生育環境へ適応し、また、病気を含めた突然の自然 環境の変化に対して全滅の憂き目を見ることなく、子孫を繋いできたのであ ろう。
ただし自然は必ずしも異端児に対して寛容なわけではない。生きる力に欠
けるものには子孫を残すことが許されない。それでも生物は次から次へと異 端児を生み出し、新たな可能性に賭けるのである。すみれとて同じである。
人間の場合も異端児の存在が新たな世界への先導者となることは同じで
ある。かつて戦後と呼ばれた時代、日本は敗戦の灰燼の中でも逞しく生き、 世界でも有数の豊かな国を築き上げた。しかし、ここへきて日本はすっかり 元気をなくしている。
一つには一億総中流を始めとした生活レベルの画一化があるのではない
か。皆が同じような生活レベルになったことが逆に皆と同じでないと不安に なる環境を作り上げ、個性が育ちにくくなったのではないか。加えてもうひと つ大きな問題があるように思う。自然界と同じように、人間の社会において も個性は甘ったれた環境からは生まれないと言うことである。
個性を育てるためと称して、学校はもとより家庭においても子供たちが叱
られることは少なくなった。今の若者の中には、教師は言うに及ばず、親に すらぶたれたことが無い者が存在する。先に述べたように、自然はとても厳 しいものであり、その個性が生きるに不適であるなら容赦しない。自然界で は、最低限の生きる力を備えた上で始めて個性が認められるのである。現 代の多くの若者に見られる甘ったれた"個性"と称するものは、単なる我侭 に過ぎない。
子供たちよ、本物の個性を持とう。友達と違うことに誇りを持て。大人たち
よ、子供たちに厳しくなろう、彼らの個性を育てるために。すみれのような可 憐な花と言えど、過酷な自然の中で生き抜くためには全力で闘うのである。
2003年10月13日
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