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Viola Dream II
私の二人の子供はまだサンタクロースの存在を信じている。小学4年生の
長男は、それが作り話であることを薄々感じているようであるが、小学3年生 の長女はどうやら本気で信じている。彼女はサンタさんに手紙を書くし返事 を要求する。筆跡で正体がばれることを恐れた"サンタさん"が英語で返事 を書いておいたら、翌年には『日本語で返事ください』と書く始末である。サ ンタさんへの手紙はセロハンテープで厳重に封されており、中を見るには大 変な苦労をした。
私は宗教を好まない。迷信や幽霊の類も信じない。しかし、どんな生き物
にも心があって、石ころや河川、人間が作った自動車やパソコンにも魂=命 があると言う、いわゆるアニミズムは好きである。命があるものにはそれぞ れ名前があっても良いと思う。だから、私の愛車、パソコンたちにも皆、名前 が付いている。
そんな私が解釈に困るのが"運命"である。神様だか誰かが私の将来を勝
手に決めてくれるのは全く気に食わない。従って、映画ターミネーター2に出 てくる『No fate(運命なんてものはない)』という台詞は好きである。未来は 自分で切り開くものという考え方には両手を挙げて賛成である。
その一方で仕事やプライベートでは、何で自分がこんな目に遭うのか、何
で自分がこんなことをしなくてはいけないのか、ということにしばしば遭遇す る。運命を信じないならば、偶然のできごとだったとかこんなことは誰か他 の人がやれば良いとかで片付けてしまえば良いのかもしれない。ところが 現実はそうは行かない。
これまた映画の話であるが、先日、ロード・オブ・ザ・リング(1作目)を見て
いたら、こんなシーンがあった。指輪を捨てるための苦難の旅路についた主 人公が、『こんな指輪、もらわなければ良かった』と嘆いたのに対して、老魔 法使いが『あなただけが達成可能な運命なのだと前向きに考えなさい』みた いなことを言って諭す場面である。なるほど、ものは考え方だなと感心してし まった。
自分の生い立ちやおかれた境遇、例えばどの国に生まれどのような親や
子と家族になるかは全く自分で決めようがない。人はみんな平等だよなん て言っても、平和な国のお金持ちの家に生まれた子と戦争で食べるものも 無い貧しい家に生まれた子は、人生のスタートから大きな差がある。財産で はなく人間として平等だと言う人もいるだろうが、本当にそうだろうか。容姿 の良し悪しでも人生が変わりはしないだろうか。
自分の生い立ちや境遇は変えようが無い。変えようの無いものは運命だ
と割り切ってしまおう。自分の努力で変えようのあるものは運命ではないと 信じて、道を切り開いて行こう。楽天家でお調子者の私はこう考えることにし ている。
アスファルトの隙間に芽生えたヒメスミレは暑さや乾燥に耐えなければな
らないが、他の植物との競合は少ない。崩れかけた山の斜面に芽吹いたシ ハイスミレはいつ流され落ちるか分からないにもかかわらず、葉を広げ花を つけ精一杯生きている。崖っぷちのシハイスミレは、自分は崩れ落ちた土に 埋まって死ぬかもしれないが、彼女の子供たちは土砂の流れとともに広く散 らばって新たな土地で繁栄するかもしれない。そう考えればアスファルトの 際に咲くヒメスミレも崖で花をつけるシハイスミレも決して不幸ではない。
『いつまでも続く不幸というものはない。じっとがまんするか、勇気を出して
追い払うかのいずれかである(ロマン・ロラン)』。私の好きな言葉の一つで ある。早春の野山を歩きながら生きることの意味なんてことを考えていると、 運命や未来について、すみれたちの考えを聞いてみたくなる。
2004年4月4日
https://ss295031.stars.ne.jp/
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