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Viola Dream II
私は幸いにも二人の子供の父親になることができた。昔から子供が好き
で、他人の子供でも可愛いと思っていただけに、自分の子供を持つことがで きたのは私にとって何よりの幸せである。
私が高校生の頃だったか、父にこんなことを言われた記憶がある。『男は
40歳を過ぎたら死に方を考えなければならない』。20歳に満たない時に死に ついて考えろと言われても難しいと思うが、今、40歳を目前にしてようやくこ の言葉の意味を理解できたと思う。
子供が生まれたばかりの頃、どんなことがあってもこの子達を残して死ぬ
ことはできない、守ってやらねばならないと思っていた。しかし彼らが小学校 の中学年になり、彼らの言葉で彼ら自身を語るようになってきたのを見て考 えが変わった。これからは彼らを守ることよりも彼らを教えることが大切であ ると。
私が父親として彼らを教育できるのは、恐らくあと10年もなかろう。その後
も折に触れて何か教えることができるとしても、それはたかが知れている。 いずれにせよ私の寿命はあとよくもって50年、彼らはその後まだ30年近く人 生を生きることになる。
『死において我々は生命を失いはしない。我々はただ個人性を失うだけ
だ。それ以後、我々は我々自身ではなくて、他人の中に生きる』 サムエル・ バトラーの言葉である。全ての人間に唯一平等なのはその生命がたった一 つしか与えられないということかもしれない。従って、命は決して粗末に扱っ てはならない、自分の命も、そして他人の命も。
女性は命を産み守る性であり、男性は命を使う性だと思う。もし私が自分
の命を使うことで自分の子供たちに一生涯忘れられない記憶=教育を残せ るのであれば、喜んで死ぬべきだなと思う。ベッドの上で天命を全うして死 ぬのも良いだろうが、必要なら死んでみせる姿勢も悪くない。
現代社会では父親が家族とともに過ごす時間は非常に短く、恐らくは家族
が窮地に立ったその時に居合わせることができないのが常であろう。家族 の窮地に居合わせるのはよその家族の父親であり、言い換えれば自分が 遭遇するのは他人の家族の窮地である可能性が高い。自分の家族が窮地 に立たされれば多くの父親はただちに手を差し伸べるであろうが、他人の家 族ならどうだろう。また、自分の家族の窮地に対して他人の家族の父親が 救いの手を差し伸べてくれなかった場合、そのことを責めることができるだ ろうか。
私自身、確固たる自信があるわけではない。それでも、もしもの時、他人
の家族であってもできる限りのことをしようと思う。私の家族がピンチの時は 誰か居合わせた人に助けてもらいたいと望むから。そこでもし私が命を落と すことになっても仕方ないなと思う。なぜ私がそのように行動すべきだった のか、私の子供たちはすでにそれを理解できる年齢に達していると信じる。
すみれは多年草であるが、その寿命は長いとは言えない。彼らは自分の
子らに何を残すのであろうか。他の植物との競合に打ち勝って一族が生活 するためのスペースを確保する、地面にしっかりと根を張って"土"を作る、 そして自らが死んだ後はその全てを養分として子らに捧げるのであろう。後 を託す、と言った命のリレーである。私もすみれたちに負けないよう、子ども 達に何かを残せるのであろうか。
2004年5月5日
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