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Viola Dream II
全ての生命は死を拒み、その寿命を全うすべく闘う。同時に、その命をす
り減らしてでも新たな生命を宿し育てる。すみれたちもまた、その短い一生 を最後まで精一杯生き、そして土に還る。乾燥や寒さに耐え、病気や虫と闘 い、自らの命を削りながらもたくさんの新たな命を産む。すみれの花が美し いのは、それが命の煌きであり、彼女たちが生きることに真っ直ぐなためか もしれない。
私は父が結婚する前のことを余りよく知らない。尋ねなかったためでもあ
るし父が進んで語ることが無かったためでもある。私が知っていることは、 父が中学の頃には両親とも死んでいなかったこと、父は姉夫婦に育てられ たこと、中学卒業後は昼間働いて夜に高校へ通ったこと、お金が無かった ので大学進学を断念したことくらいである。その後、父は警察官になった。 31歳で母と結婚するまで巡査だった父は、母との結婚によりその人生を一 変させる。私が生まれてから父は巡査部長に昇進、その後は警部補、警 部、警視と昇進し、警視正として定年退職した。余談ではあるが、『こちら亀 有公園前派出所』の大原部長は巡査部長、ルパン3世に登場する『銭形の とっつぁん』や、石原裕次郎が演じた『太陽にほえろ』のボスは警部である。
その私の父は今、食道がんで入院している。5月17日から6週間、抗がん
剤と放射線治療を受け、効果が無ければ退院させられることになっている。 治療の効果が無いのに退院と言うことはすなわち最終宣告である。
3月頃から急に声が出なくなる日があったが、最初の内は翌日には回復し
ていたそうだ。本格的に異常を感じたのは4月になってからで、5月の連休に 私が宝塚の実家で父に会った時は、ひどい掠れ声であった。
食道がんは男性に多いがんであり、喫煙、濃いアルコールや熱いものの
飲食などにより発症率が高まるらしい。父はヘビースモーカーであったし、 アルコール依存症ではないが強い酒を好み連日かなりの量を飲んでいた。 従って、なるべくしてなった病気とも言える。検査を受けた時に父はある程 度覚悟していたようだが、がんを告知された時は流石にショックだったよう だ。
検査入院した時、父は退屈とおそらくは不安を紛らわせるため、母にウィ
スキーを病室へ持って来させて飲んでいたらしい。私の弟は父にタバコをや めるよう繰り返し言っている。しかし、父は吸う量を減らしたと主張している が禁煙しているわけではない。
『親が子に残せるもの』でも書いたように、父は、『男は40歳を過ぎたら死
に方を考えなければならない』と私に言ったことがある。父はもう70歳である から、すでに覚悟ができているのであろう。入院の前日、父について病院へ 行った時、バス停で待つ間に父は私にこう言った。『多分、今度の治療で一 旦は治るだろう、その後再発したら即、終わりだな』。笑いながら言ったその 表情には諦めと哀しみに混ざってある種の決意が見えた。
私は根っからの理科系人間であり、また、職業も研究員である。私の研究
対象は農薬、その中でも作物を病気から守る薬剤を研究しているので、植 物の医者とも言える。人間の病気は専門ではないが、ある程度の知識はあ る。従って、父の病気がどの程度のものか想像は難くない。しかし、父には 最後まで病気と闘ってほしいと望む。単に往生際が悪いのは困るが、諦め ずに闘うことは全くの別物である。
なるべくしてなった病気であると書いたが、酒やタバコは厳しい仕事のスト
レスを解消するための手段であったのだろう。そう考えると公務員の父が3 人の息子を大学まで進学させ(私はさらに2年間、大学院に残って勉強させ てもらった)、駅前の一等地に家を構えることができたのには、大変な苦労 があったに違いない。父の病気の直接の原因が酒やタバコであったとして も、そこには家族を養うと言う大義名分があったはずである。
先に書いたように、父の人生は母との結婚を境に幸せが連続するようにな
った。がんになったことは辛いことであるが、見方を変えれば、最後にもう一 花咲かせる絶好の機会を得たことにもなる。父親が息子や孫に、男の生き 方、最後まで闘う姿勢、を見せてやれるなど望んでもそう叶うものではな い。何よりも、一番下の弟、30歳を超えたにもかかわらず一人前になりきれ ていない弟にこそ、父の姿をしっかりと見て欲しい。私の子供たちは小学4 年生と5年生である。彼らは今すぐに全てを理解できないかもしれないが、 いつの日か、それを理解する時が来るだろう。
父は今、すみれたちと同様、生きるために闘っている。今はただ、その父
の回復を祈る毎日である。
2004年6月6日
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