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Viola Dream II
植物の種子の多くは、適当な温度と光、そして水があれば発芽する。すみ
れの種子も同様である。しかし、種子の全てが一斉に発芽することはない。 どんなに発芽に良い条件が揃っても発芽しない種子がいる。一斉に全ての 種子が発芽すると、その後の環境の悪化、例えば急に寒くなったり雨が降 らなくなったりすることで全滅の憂き目をみることになるからである。いつ芽 吹くかは個々の種子に委ねられており、それがそれぞれの種子の運命でも ある。人もまた同じである。
私の娘は1995年1月18日、すなわち10年前の阪神淡路大震災の翌日に生
まれた。私の妻の母親は、私たちが結婚する半年ほど前に亡くなった。従っ て、妻がお産の時、私の母と祖母が兵庫県宝塚市の実家から手伝いに来 てくれた。1月16日、私が二人を車で迎えに行った。その翌朝、私たちはた だならぬ揺れに飛び起きた。
しばらくして、宝塚に残った父から電話が入った。『とりあえず大丈夫だ、
怪我はしていない』 何の話かさっぱりわからなかったが、その後のニュー スで震災の様子を見て驚いた。しかし、今度はもう何度電話しても宝塚の父 とは連絡が取れなかった。
その日の内に妻は産気づいて入院、翌日、長女を出産した。予定では、出
産後に妻は長女と1歳半の長男を連れて宝塚で静養するはずだったが、宝 塚の実家が半壊したために滋賀県に残ることになった。もちろん、私の母と 祖母も滋賀県に残った。
私の勤務する会社では、子供が生まれたら数日間の特別休暇がもらえる
システムになっていた。私は休暇を取って、すぐに宝塚へ向かった。大阪 (梅田)からの阪急電車の車内は、普段とは全く異なっていた。ヘルメットや 作業着姿の人が大勢乗車しており、どの人も皆一様に、こわばった表情をし ていた。
西宮からは阪急電車も不通だった。私は線路を歩いて実家へ向かった。
線路は文字通り飴細工のように捻じ曲がり、新幹線の高架が崩れ落ち、地 震の物凄さを思い知らされた。
余程怖かったのだろう、父は家にいることができず、勤務していた会社に
避難していた。実家は壁にひびが入り、屋根瓦も多数落ちていた。中は全 ての家具が倒れ、食器類が割れて散乱し、足の踏み場もない有様だった。 父が寝ていた部屋は仏壇以外にこれといった家具が無く、おかげで怪我を せずに済んだようだった。私はまず倒れた仏壇をもとに戻して父の無事に 感謝した。
余震はまだ続いていた。私が室内の片付けをしている時にも何度か揺れ
た。
電気、ガス、水道の全てが使えなかった。もし長女が予定日より早く生ま
れていたら、妻は幼い二人の子供とともに宝塚で被災していた。入浴や洗 濯はもちろん、暖房も使えない状態で一体どうなったことだろう。車の使用も 困難な状態であり、宝塚から脱出することすら容易ではなかったことだろう。 逆に、長女がそろそろ生まれそうだったために、私の母と祖母は滋賀県に 来ており被災せずに済んだ。それも地震が起こる前日に。運が悪ければ私 自身、宝塚の実家または高速道路上で被災した可能性もあったのである。
どこかで何かが少しずれていたら。そう考えると本当に幸運だったと思う。
絶妙のタイミングで生まれてくれたおかげで、私たちを震災から守ってくれ
た長女は明日で10歳。妻の影響か歴史に興味があり、誕生日のプレゼント が司馬遼太郎氏の本(歴史苦手の私には読めそうにない・・・)。だからと言 って物静かな読書家ではない。私に似て叱られても立ち直りが早く、他人が どう思おうと我が道を行くタイプのようである。
人の名前は誕生時に付けられるので、その人の特徴ではなく親の願望や
期待が主である。長女の名は『杏子(きょうこ)』である。
名前は私と妻で考えた。この命名にはいくつもの理由がある。私自身の名
前と同じように『木』に関係する文字を採用したかったこと、『実』のある人生 をおくって欲しいと願ったこと、日本人らしい女性になって欲しいこと等であ る。
『運は常に思慮深い者の味方となって戦う(ロマン・ロラン)』
長女には彼女自身の強運を信じて、その一方で過信せず、そしてその幸
運を他人にも分けてあげられるような人生を歩んで欲しいと願う。
2005年1月17日
https://ss295031.stars.ne.jp/
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